■アルゼンチン基礎情報
南半球に位置し、日本の真裏になります。
飛行機でも、乗り継ぎで約36時間ほどかかる日本から一番遠い国です。
首都は、ブエノスアイレス。
人口約4,000万人。総面積2,766,890km2と日本の約7.3倍もの広さがあり、世界第8位の面積です。
人口密度も、14人/km2と、日本の24分の1(日本は339人/km2)と広大な面積の割りに、人口が少ない国です。
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アルゼンチンの国旗 |
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■アルゼンチンといえば、タンゴ
アルゼンチンといえば、サッカーやタンゴがイメージされますが、
首都ブエノスアイレスでは、レストランでもタンゴショーが開催され、食事をしながら見ることも出来ました。
ウィキペディア「タンゴ」はこちら
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■アルゼンチンへの日本人移民について
日系アルゼンチン人の歴史は1908年から1909年にかけて、沖縄と鹿児島から移民が到着したときに始まったと言われています。 アルゼンチンではこの2県出身の日系人が多くいます。
初めてアルゼンチンに着いた日本人はブラジル経由で入国しました。その後も、近隣の国へまず入ってからアルゼンチンへ入国する日本人移民が多かったようです。
戦前のビジネス
戦前には、日系アルゼンチン人の大部分は都市部で小さな商売を営んでいました。
特にブエノスアイレスでドライクリーニング業とカフェを営む人が多かったのですが、ほかに、奉公人、工場の従業員、港湾労働者として働いた日本人もいました。さらに、少数ながら園芸業、花卉業、漁業などに従事する人もいました。日本人の多い地方では、県人会や日本語学校等の組織が作られ、日系コミュニティ形成と連帯の中心的役割を果たしました。
第2次世界大戦の影響
日米が戦争をしていたとき、アルゼンチンは1943年まで中立を保っていたので、日系アルゼンチン人の生活には大きな影響はありませんでした。それでも、1944年から1946年にかけては、集会、日本語教育、新聞発行等は禁止され、日本人の財産凍結も行われました。その間、日本人居住者は、よりアルゼンチン社会に溶け込んで、アルゼンチンを自分達の故郷にするよう努力しました。
1960年代以降の移民の波
1960年代から70年代にかけて、新しい移民の波が日系社会を再び活性化しました。多くの移民は農業分野での経済的可能性に引かれてやって来ました。戦後、アルゼンチン生まれの日系人の社会的地位が向上するようになります。多くは大学以上の教育をうけ、またカトリック教徒でもあります。専門職、技術職に就きたいと希望する人が増え、若い日系アルゼンチン人の選ぶキャリアは今ではどんどん多様化してきています。1980年代の不景気を反映して、二世・三世の中には、日本で働くことを決めた人たちもいたと言われています。
※現在アルゼンチン国内に在住する日系人は約35,000人です。戦前・戦後を通じて日本人は海外を目指し、広大な国土に対して人口の少なかったアルゼンチンにも定住しました。祖国日本との友好関係も深いアルゼンチンには、岐阜県人会などもあり、2008年には、在アルゼンチン岐阜県人会創立35周年記念式典も開催され、岐阜県古田知事も参加されました。
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その時の様子はこちら
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■アルゼンチンの農業について
主に国土の約25%を占める「パンパ」と呼ばれる肥沃で平坦な温帯草原地帯で、大豆、トウモロコシ、小麦等の栽培と、牛を中心とした放牧が行われています。
生産量は大豆3.8千万トン(世界3位、05年FAO)、トウモロコシ2千万トン(5位、同)、小麦1.6千万トン(12位、同)、うち輸出量は大豆6.5百万トン(3位、04年FAO)、トウモロコシ1.1千万トン(3位、同)、小麦1千万トン(5位、同)と、穀物等の世界需給において主要な位置を占めています。
農業の総生産量のうち、27%が大豆、7%が小麦、6%がとうもろこし という構成比です。
農水省 アルゼンチン農業概要はこちら(2011年1月のデータ)
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バラデーロ農場風景 |
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